|
|
DVDを買ってきてウディ・アレンの「誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう」を観た。
爆笑。
前にもテレビで観た憶えがある。
劇場でもウディ・アレンの映画はよく観るほうだが、彼の映画は「表現者」という言葉の真の意味を教えてくれるような気がする。
***
私は自分で自分のことを決して「表現者」とは呼ばない。
私は自分のことを「売文屋」あるいは「物書き」と呼ぶ。
いったい何がちがうのか。
***
たとえば入れ墨を彫る人も表現者だし、リストカットをする人も表現者だ。抗し難い内なる衝動や葛藤を外に向けて表現「せざるをえない」からこそ表現者なのだ。
なにかを(一般的な意味で)表現して金をもらっているから「表現者」なのではない。
テレビの民放番組の多くは、先に「どうしても表現したいもの」があるわけではなく、先に「金と結びついた放送枠」があるために、その枠を埋めようとして番組をつくっているから、相変わらず同じような面々が同じような内輪のネタ(何を食べたとか、どこに行ったとか、誰を騙したとか・・・)を垂れ流しているわけだ。
テレビの創成期には、そんな無駄はなかったにちがいない。
前にも書いたが、「ロード・オブ・ザ・リングス」三部作を完成させたピーター・ジャクソン監督も立派な「表現者」だろう。
なぜ、こんなことを書いているかといえば、ウディ・アレンにしろ、ピーター・ジャクソンにしろ、驚くようなB級映画(ドタバタ喜劇やスプラッター)を撮っているのに、その同じ人間が映画賞を独占するような素晴らしいA級映画を完成させる点がすこぶる興味深いからだ。
こういうことなのだろう。
ウディ・アレンもピーター・ジャクソンも基本的に「表現者」なのであり、彼らが表現したものをB級とあざ笑ったりA級として賞を出したりするのは、あくまでも受けての反応にすぎない。
大事なのは、その時、その時において、彼らが何を「表現したいのか」なのであって、その結果は、いったん外に出てしまえば、あとは鑑賞者の間を独り歩きし始める。
一時、ポストモダンの芸術評論においては、まるで表現者ではなく鑑賞者のほうが鍵を握っているかのような言い回しが流行ったが、おそらく、真の「表現者たち」にとっては、そんな「うがった」とらえかたも、どこ吹く風なのだろう。
ただ、それでも「表現者たち」は、自らの申し子が待ち受ける運命を気にする。
だから、それがB級と嗤われれば、それが彼らの内面の状態を変えてゆき、あるとき、周囲からは信じられないような変身を遂げて、拍手喝采を浴びる。
まるで、醜かった蛾が美しい蝶に脱皮する瞬間のように。
***
芸術家が自殺をするとき、私は、いつも非常に残念に思う。
彼らは、好き好んで自殺するわけではない。芸術作品を創作する原動力と同じ「内なる衝動」をコントロールできなくなって、(うつ状態などで活動が落ちて、)創作という形でのカタルシスが得られなくなってしまい、荒れ狂う「心の野獣」に自分自身を喰い尽くされてしまうのだ。
***
私としては、そういった命掛けの「表現者」にはなれそうにもない。
ま、気楽な「物書き」として人生を愉しむとするか・・・。
|
|