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移行しました

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 9月12日(月)01時10分47秒
  http://kaoru.txt-nifty.com/diary/

に移行しました。

http://kaoru.txt-nifty.com/schrocat/

もヨロシク!
 

そろそろ

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 9月11日(日)04時22分53秒
  そろそろブログへ移行します。

これまで「湯川薫日記」を御愛読いただき大変ありがとうございました。

引き続き「薫日記」もよろしくお願い申し上げます。
 

ただいま

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 9月 8日(木)16時41分16秒
  「社名変更」とブログへの移行作業中。

ブログは「薫日記」と「シュレ猫文章倶楽部」から始めるつもり。
細かい設定などをグリペンさんにお願いしているところ。
 

事務連絡

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 9月 7日(水)13時01分49秒
  ちょっとバタバタしておりまして、掲示板などでご指摘いただいた正誤表の扱いが滞ってしまっています。
また、ご質問等への返答もできておりません。

状況が改善され次第、対処するつもりでおりますので、あしからず。
 

危機一髪

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 9月 5日(月)17時53分8秒
  「ほーら、トリさんが怖いぞぉー」
「きゃー」
「ほーら、大きなトリさんの影が近づいてくるぞぉー」
「きゃー」

今しも巨大な大鷲がいたいけな子供に襲いかかろうとしている。

「ちょっと、やめなさいよ、猫が怖がってるじゃない」
「ほーら、ワシさんだぞぉー」
「ワシじゃなくて、あなたの古ぼけたジャージでしょうが。それに猫は、きゃーじゃなくて、みゃーって鳴いているのよ」

とたんに夢から現実に引き戻されるオレ。
猫って、黒い布がハタハタしていると、本能的に逃げて机の下なんかに隠れるんだよ。
せっかく、人が「大鷲急襲!」という切迫した場面を演出して酔いしれておったのに。
K妻はきわめて現実的な性格である。
 

誤解されっぱなしの「宗教」

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 9月 5日(月)13時06分59秒
  私はカトリックの信者なのだが、ほとんど教会には行かない。
でも、聖書は読んでいるし、常に宗教を意識して生きている。

日本には宗教を忌み嫌う風土があるようで、その原因は私にはわからないが、少なくとも現代科学が昔の宗教の肩代わりをしているようには見えないから、大勢の人が「心の拠り所」を失っている。

自分自身が拠り所であったり、実存主義哲学が拠り所であるような人もいるだろうし、心理療法士のセラピーに頼る人もいるだろう。

私はカトリックだが、基本的に宗派というのはあまり大事だと考えていない。
大切なのは宗教が与えれくれる「心の避難所」としての役割であり、いいかえると「人間本位主義=ヒューマニズム」なのである。
それがない宗教は平気で人を殺す。

こんなことを書くと、「それではカトリックとプロテスタントの殺し合いはどうなる?」とか「キリスト教とイスラム教の争いでも人が死ぬだろう」などと言われそうだが、まさに、「ヒューマニズム」の視点を見失ったとき、それはもはや宗教の名に値しないのだと断言できる。

テロや戦争を後押しするのが宗教なのではない。
それは単なる集団狂気にすぎない。

表面的な宗派の区別よりも「心の拠り所」としての本質が大切だと考えるから、私は、法華経の入門書もたくさん読んだし、最近では「無宗教からの『歎異抄』読解」(阿満利麿、ちくま新書)を読んで感銘を受けた。

考えてみれば、人種差別も階級差別もすべて「ヒューマニズム」が失われた状態なのだ。

私の周囲で心の問題で苦しんでいる人たちの多くは、頑なに宗教を拒んでいるように見える。
おそらく、その人たちの「宗教」のイメージは、私が使う「宗教」という言葉とは全く別の何かなのだ。

以前、ある生物学者が書いたエッセイの中に、宗教を拠り所として生きることの是非が論じられていて、多いに考えさせられた。
その生物学者は、できれば無宗教で自分を拠り所にしたほうが、宗教に頼るよりいいのではないか、と書いていた。
だが、私は思ったのだ。
自分だけを拠り所にしてがんばれる人間なんて、よほど強くないと無理ではあるまいかと。

たとえば私は自分を拠り所にして生きていかれるほど強くない。
私が弱い人間であることは私がいちばんよく知っている。
でも、私の周囲には大勢の人が集まってくれるし、講演や講義や酒宴の席で、私は(ほんの少しだけ)みんなを幸せにしてあげられる。

それは私の心の中にある「ヒューマニズムとしての宗教」が源泉だ。

***

宗教という言葉に「負」のイメージばかりがつきまとう現代は不幸な時代である。

私の身近なところで心の苦しみにのたうちまわっている人を見ながら、私は、彼を救ってくれる「宗教」に出会ってくれれば、と希うのだが、彼は自分以外の拠り所を探そうとはしない。

私は宗教者ではないし布教もしない。
私は物書きだから、作品で彼を救うしかない。
はたして私の言葉は彼の切り裂かれた心に届くであろうか。
 

超困難時代を乗り切る法

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 9月 4日(日)12時37分31秒
  超困難時代なので、たいてい、超事件が3件ほど同時多発すると、平静を保っていられなくなるようだ。
でも、それは、オレだけでなく、みんな同じなんだよね。
人によって閾値がちがうけれど、オレの場合、超事件3連発で「めげ」始める。

それを完全に解消するには、ポジティブな超事件1つで足りるのだが、ネガティブな超事件のほうが発生確率が高いんだよね。
だから超困難な時代というわけさ。
(バブルのときとかはその確率分布が逆だったんだろう。オレはカナダに島流しになっていたので知らないが)

***

掲示板をみていてハタと気がついた。
そうか、そうだったのか。

オレの科学書を読んでくれている人は、多かれ少なかれ、「ニヤリ」経験を楽しんでいるのか。
平凡な言葉遣いで恐縮だが、ようするに「ライト・ユーモア」だよね。(毒舌ユーモアもあるのかもしれないが)

そう言われてみると、そこかしこにユーモアが入っている本は、長く売れている。

湯川ミステリーが売れなかったのは、登場人物のうちでユーモアを発散しているのが公文洋介だけだったからかもね。
どうやって湯川薫の復活を遂げるか思案中なのだが、この際、ユーモア路線というのもアリかもしれない。

実際、講演やシュレ猫文章倶楽部などでは、みんなでクスクス笑って、酒宴で大笑いするのが目的になりつつあるもんな。

白いユーモアと黒いユーモアとその中間のグレーのユーモアでやってみますか。

う、この文章自体はユーモアに欠けていたりして←冷や汗
 

うん?

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 9月 3日(土)12時27分48秒
  増殖する一方の本の収納対策としてブックマンのスライド式本棚を導入中。
すでにCAL90(580冊収納)を6つ導入したが、まだ、足りない。
横浜のほうもさらなる書棚の追加が必要な様相を呈しておる。

K妻「ねえ、なんで、同じ本が何冊もあるのかしら?」
オレ「同じ本ってどういうことだ」
「『Yの悲劇』は6冊あるわよ」
「英語の原書と翻訳者がちがう奴だろう」
「じゃあ、泉鏡花全集が4つもあるのはなぜ」
「字体がちがうし、一つは春陽堂、もう一つは岩波、もう一つはちくま文庫、さらには河出書房新社、集成は全集とはちがうしな。持ち運びできるものとそうでないものがある」
「小林秀雄全集は同じものが二揃いあるわよ」
「ちがう。一方は昔のソフトカバー版で、一部、抜けがあるのだ」
「それなら、抜けのところだけ買えばいいじゃない」
「おまけのCDに釣られたんだよ!」
「『平家物語』はどうなの」
「だから、原書と現代語訳と絵巻で種類がちがうだろう。もちろん、『新平家』も全く別だ」

一連の会話により、本が増える理由がよーくわかった。(反省の色なし)
 

鎌倉

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 9月 3日(土)10時00分35秒
  鎌倉市役所に期日前投票に行った。

ここのところ横浜界隈しか歩いていなかったが、久しぶりに鎌倉の街並を歩いていると、どことなく時間の流れがゆったりしていて、安心できる。

最近は日本中の時計が忙しなく動いていて嫌だ。

***

出版界も航空業界も小売業界も音楽業界もチャップリンのモダンタイムスの世界さながら、みんなで「ヒーヒー」言いながら、周囲に突き動かされるように、あてどもなく走り続けていて、ネイチャー誌が「アジアのブルーな気分」などという特集を組んでも誰も気にかけず、自殺の数は3万人を突破したままだ。

横浜という街は好きだが、もしかしたら、オレの精神は、この日々成長しゆく都会の変身速度についてゆくことができず、駅を埋め尽くす群衆にまみれて、動きたい方向にも動くことができずに、勝手に焦燥感を深めているのかもしれない。

少し静かで木と土と水のある土地に引っ越したほうがいいのではないか、などと考えたりもする。

***

鎌倉の紀伊国屋に行って茂木にお祝いを送った。
周三郎が「胡蝶蘭だらけになるって話よ」というので、花はやめた。

その後、隣の鎌倉市役所に寄って、期日前投票をした。
金曜日の夕方ということもあって、投票にくる人はほとんどおらず、職員がてもちぶさたで格子にもたれかかっていた。

鎌倉のカロア猫は人間でいえば百歳に近く、半分眠ったようになったり、かと思うとエビを嬉しそうに食べたり、猫の老境である。
あとどれくらい生きてくれるだろう。
 

本の山

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 9月 2日(金)14時15分57秒
  鎌倉の書斎が本であふれかえって、足の踏み場もないので、次々と書棚を導入中。
ようやく1/3ほど整理がついた。

本日は次の1/3を整理する予定。
愛猫のカロアにも長らく逢ってやっていないので好物のエビをもっていってやる。
あと、不在者投票もしなくてはな。

それでも、まだ、母親の実家に本の山が残っていて、そちらもいつかは引き取らなければならないだろう。
やれやれ。
 

理数危機という実感

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 9月 2日(金)04時57分23秒
  ここ数年のオレの焦りがどこから来ているかわからないが、たとえば「モノ造り」の復活が喧伝されているのに、大事なことがすっぽ抜けているような気がしてならないのだ。

モノ造りというのは、たしかに肉体労働的な側面もあるけれど、世界に対抗してモノを造ってゆくには、その背後に高度な理数センスが必要なはずだ。それなのに、テレビや新聞の報道を見ていても、その「根っこ」のところが完全に忘れられているように思えてならない。

一つには、科学ジャーナリストで理数系出身の人が極端に少ないことがあげられるだろう。
たとえば新聞社やテレビ局に数学科出身の人がどれくらいいるだろう? 物理学科出身の人などほとんどいないのではあるまいか。
理数系の「視点」を代弁する人がいないんだ。

それに対して、生物系の話は、(マスコミにおける代弁者の数も多く、)一般の興味を引きやすい。それは、日常言語で「わかる」ような気がするからかもしれない。(本当は、わからないわけだが! それは専門の人たちの話に聞き耳を立てていればすぐわかる(笑))
考えてみると、オレが書評の本を選ぶときも生物系の本は面白く感じることが多いよな。

とにかく、今あえて、理数系に的を絞って、教育や啓蒙活動のてこ入れをすべき時なのだと思う。
それが長年、コツコツと理数教育・啓蒙活動を続けてきたオレの偽りのない実感(危機感)だ。

ここ数年、何度も、生物系の偉い人から「物理はわからない=必要ない」というような評価をされたという思いがあって、それが「居場所のない」感覚につながってしまったように思う。まあ、裏の話なので、これ以上は書かないが、編集者ともそういった「流れ」の話をすることがあって、忸怩たる思いがある。

ようするに科学出版の世界には「理数応援団」が非常に少ない、ということだ。

なんとかがんばって世間の認識を変えていかないといけないのだが・・・。
なかなか拡がらないから苦しいのだな。

ま、気を取り直して、引き続きがんばるべ。
 

オレの立ち回り先が

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 9月 2日(金)02時46分25秒
  某渋谷にて。2005年9月1日某日。某時刻。

オレ「ふぇー、暑いなぁ」
K妻「そうかしら」
「40度くらいあるんじゃないか」
「30度くらいじゃないの」
「そうだ、本屋行こう」
「いいわよ、どこに行くの」
「ふ、ここはオレの庭みたいな街だぞ。まかせとけ」

数分後。年中無休。本のデパート大盛堂の前にて。
「あれ? 閉まってるじゃねえか」
「そうみたいね」
「うーむ、ここ、年中無休のはずだが・・・ほれ、シャッターにも年中無休と書いてある」
「(張り紙を指差しながら)お店自体が閉店したみたいね」
「・・・」

数分後。駅前の大盛堂新店舗前にて。
「ま、移転したということだな。科学書は何階かな?」
「コミック、雑誌、文芸・・・イベントスペース・・・ないわね」
「大きさも前と比べると百分の一くらいしかねえぞ」
「理工書は入らないわね」
「学生時代に足しげく通った店なのになぁ・・・なんだか寂しいな・・・まあ、これも時代の流れという奴だ。すぐ近くの地下に旭屋書店があるから、そっち行こう」

数十秒後。旭屋書店前にて。
「あら、ここも休業みたいよ」
「長らく・・・御愛顧・・・8月31日・・・30年の歴史・・・幕・・・まく、まく、まくまく、まくまくま」
「だ、大丈夫?」
「あ? ああ。うーん、ダメだ。ちょっと眩暈がしてきた」

半時ほど経って。西村パーラーにて。
「少し落ち着いた?」
「うむ。三十年来行きつけの店が同時に二店舗消えたのでオレとしたことが取り乱してしもうた。ま、考えてみれば、ダイエーも西武もイトーヨーカドーも三越も潰れる時代だ。巨人の試合も閑古鳥が鳴いておる。渋谷の環境は、真面目な本屋には厳しくなってしまったということだろう・・・それにしても、東大の駒場の学生は、いったいどこで本を買っておるのだ・・・こうなると、あとは三省堂くらいしか思いつかないぞ」
「行ってみる?」
「よっしゃ、気を取り直して散歩がてら行ってみよう」

五分後。穴の前にて。
「ねえ、あまり言いたくないんだけれど、最初は縮小移転、次は廃業、今度はビルごとなくなって穴になってるんだけど」
「どんどん被害が拡大しているということか」
「そう見えるわよ」
「(張り紙を見ながら)三省堂の移転先は・・・神田本店・・・この前サイン会やったとこか」
「渋谷店舗は消滅したのよ」
「オレの立ち回り先、みんな、なくなっちまった」

意気消沈したオレは、もはや渋谷の街で理工書のある本屋を探すことはあきらめた。なぜなら、K妻のいうように、この調子でゆくと、次は「街ごと消滅」しかねないからだ。オレは、そのような恐ろしい事態を招くことは得策でないと考え、足早にこの文化的に滅びつつある街を後にしたのだった。(実録)
 

睡眠大魔王

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 9月 1日(木)10時43分10秒
  これまでに家族の破産、失業、さらにはもっと大変なことも経験してきているが、そのわりにはオレの仕事は順調だ(笑)←いや、おかげさまで

家族は命の瀬戸際で踏みとどまっているような状態でも、オレだけは大丈夫。
最近、「大丈夫、大丈夫」というのが口癖になってしまったが、そこには一種の自己暗示の効果もあるようだ。

支え切れないほどの問題があるときは、独りで抱えていると潰れてしまう。
作家の場合は、そういうときには、自然と筆が進んで、気がつくと何百枚もの原稿になっていたりする。
「表現」せざるをえなくなって書くのだから、これは一種の自己セラピーなのだろう。
職業柄、それを発表しようと考えていなくても、自動的に推敲をしていたりして、自分でも時間の無駄とわかっているのに、もう身体が動いてしまうので、どうしようもない。

その一端は、この日記にもよく登場すると思うが。

だが、オレの場合、見えない敵が本丸寸前にまで迫っても、押し返す力が残っている一番の理由は、例の「12時間睡眠」にあると確信している。
寝る子は育つ、などというが、むろん、「寝る大人は復活する」。
前日、家族の苦しみに接して、自分自身も精神的にボロボロになったとしても、オレは、なぜか、睡眠薬などのお世話にならずに、常に12時間寝ることができる。
そして、翌朝起きると、もう気分がすっきりしているのだ。

今、家族が約二名ばかり、かなりの窮地に立たされているのだが、いつもと同じように、必ずや、オレが踏ん張って押し返してみせよう。ふわぁ、ねむ・・・。
 

質問状

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 9月 1日(木)10時22分21秒
  いただいた質問状が、かなりたまってしまって、なかなか返答できない状態が続いております。

メールでの短いご質問には、かなり迅速に対応できていると思うのですが、基本的に論文査読と長い計算の導出は、お受けできません。どうかご理解をたまわりたく。

式の導出で何枚にもわたるものや、前提となる知識の解説がかなり必要な場合は、参考文献の該当箇所を明示して、返信させていただくことになります。あしからず御了承ください。
 

祝・小林秀雄賞受賞!

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 8月31日(水)09時51分4秒
  親友の茂木健一郎が第4回小林秀雄賞を受賞した。
心から祝したい。

「脳と仮想」は熱海に茂木たちと温泉に泊まりに行ったとき、湘南電車の中で読み始めたのだけれど、とてもいい本になっていて驚いた憶えがある。

茂木の凄いところは、その旺盛な文化的「吸収力」と思考の「柔軟性」にある。こういうのは本来は若者の特権だが、四十を過ぎてもそれができるということは、脳が若い証拠なのだろう。そこに年齢による「蓄積」が加わって、作品に深みがでてくる。

今後も、文化全般にわたる幅広い活動を続けてもらいたいものだ。

個人的には、最近、忙しくなりすぎて、昔のようにゆっくりと飲んだり温泉に行ったりする時間がとれなくなったこと。それはちょっぴり寂しいよね・・・。
 

数式と英語

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 8月29日(月)11時03分53秒
  先週の朝カルでは宇宙論に出てくるロバートソン=ウォーカーの計量から始めて、アインシュタイン方程式と流体方程式と状態方程式をすべて(そのまんま)黒板に書いて、数式レベルでの解説をした。

かなり悩んだ末での「決断」だが、全六回の授業のうち、1回半から2回くらいまでは、こうやって「本当」の数式を書いて説明するのもアリなような気がする。

数式を言葉で説明するのは最悪の方法であり、それは、本でも授業でもダメである。
そこで、「比喩」に頼る説明が多くなる。
比喩は、うまい比喩であれば、「わかった気になる」ので、その効用は大きいが、それでも本当の数式と実験データの「つきあわせ」の部分が説明できないから、心底わかった気分にはならないし、他人に説明しようと思うと、とたんに手から魚が逃げ落ちるような感覚に陥ってしまう(であろう)。

というわけで、次回の「ホーキングの宇宙」でも、量子宇宙に関する本物の数式を書いて「とことん」その意味を説明することにしたい。

まあ、6回のうち4回までは「比喩」と「絵」を中心とした説明になるので、難解でどうしようもなくなる心配はないはず。

掲示板にも書いたが、ついでに「素粒子の対称性」の話もやってしまうつもりだ。
ほら、SU(2)とかSU(3)とかの話。

***

一方の英語で読む講座は、机を寄せて、特に当番を決めずに「理系英語」のお勉強という雰囲気になっている。
次回は、「英語のライティング」の講義をやって、それから輪読という予定也。

***

数式も英語も人気がないわけだが、なんとか、草の根レベルで踏ん張ってみようか。
 

WATARIDORI

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 8月28日(日)18時14分12秒
  DVDで「WATARIDORI」を観た。

評判がいいことは知っていたが、実際に観たのはこれが初めて。
結論からいうと、これまで見た「自然」の映画の中では文句なしに「一番」。

撮影の方法も凄くて、4年の歳月をかけて、500名がかかわって、「出演」する鳥たちの「刷り込み」から始めて、全世界でロケを敢行。

この作品は見る人を「鳥にしてくれる」。
いつのまにか鳥の視点から地球を眺めている自分に気づくのである。これは、かなりの驚き体験だといえる。

作品の手法はドキュメンタリーとフィクションの中間といえ、控えめで詩的な音楽とあいまって、すばらしいバランスを実現している。

というわけで、初の☆6つ(笑)

驚いたことに、2002年度のアカデミー賞ドキュメンタリー部門にノミネートされているが受賞を逃している。では、その年、何が取ったかといえば、マイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」なのだと。
銃社会を風刺した作品で、それなりの意味はあると思うし、見て面白かったのも事実だが、しょせん、これがアカデミー賞の鑑識眼なのだな、ということがよくわかった。
つまり、永続性のある作品の価値が理解できないのだな。

「WATARIDORI」にアカデミー賞を出せなかったことで、私の中では、アカデミー賞そのものの価値が多いに下落した。
それほど佳い作品。
特典影像の「解説付バージョン」も必見。
 

台風

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 8月25日(木)09時40分5秒
  本日取材にて遠隔地に出張也。

日帰りだが、台風直撃必至。

取材終了時刻が、ちょうど台風来訪時と重なるような気がする・・・。

とりあえず着替えと明日の講義資料は鞄に入れていくつもり。(どこかで足留め食うかもしれないからな)
 

本日の喝

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 8月25日(木)08時56分32秒
  最近、アマゾンで注文した商品が長い間届かなくて、結局キャンセルすることが多くなった。

「新理系の化学」なんで6月27日に注文したのに、いまだに届かないので、さきほどキャンセルした。
いいよ、もう、物理的な本屋さんで買うからさ。

あと、掲示板でKimballさんが紹介してくれていた「ウクレレフォース」も一向に届かないのでキャンセルした。

Gripenさんのほうから誹謗中傷文についても(丁寧な)抗議文を送ってもらったが、それに対しては、まったく返事が来なかった。

なんか知らないが、マズイことが起きているよね。

というわけで、アマゾンのサービス悪化に対して、喝!
 

御礼

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 8月20日(土)00時47分46秒
  本日、講演会にお越しいただいた皆様、大変ありがとうございました!

おかげさまで会場は満席で、ホッと一息ついております。
(誰も来なかったらどうしよう、と戦々恐々としておりました)

とりあえず御礼まで。
 

講演会

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 8月18日(木)02時09分15秒
  明日(金曜日)の講演会ですが、まだ券が30枚ほど余っているそうです!

当日でも大丈夫と思われますので、お時間のある方は、是非、神田三省堂まで!

物理面白トークでもやろうかと思っております。
 

ただいま読書中

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 8月16日(火)20時21分59秒
  日経新聞の書評は直近三ヶ月までの本と主に科学系の本を取り上げることになっているので、それより古い本や分野のちがう本は日記に書くことにしよう。(前からやってるけどな)

本屋で新刊を漁っていたらK妻が「ねぇ、ねぇ、こんなのがあるわよ」とオレの袖を引く。

『イグ・ノーベル賞』マーク・エイブラハムズ著、福嶋俊造訳(阪急コミュニケーションズ)(2004年3月)

なんだ? イグ・ノーベル賞って?
(もしかしたら、前に誰かが掲示板に書いていたような気もする・・・)

半信半疑で購入したが、かなりの「当たり」だった。
なかでも大爆笑したのが元アメリカ副大統領ダン・クエールの発言集。

「人に魚を与えれば、一日中釣りをしているだろう。人に釣りの仕方を教えれば、一生釣りをしているだろう」(言い間違い。正しくは、人に魚を与えれば、一日で食べてしまうが、人に釣りの仕方を教えれば、一生食べていくことができる)

「副大統領の責任を一言で表すとすれば、『備えよ』である」(一言でなく三言である)

「選挙の投票率が低いということは、あまりたくさんの人が投票しなかったという意味である」(当たり前だ!)

「人は自分の生まれた土地の路上で寝ている限り、ホームレスではない」(論理の破綻)

「銀行の経営が失敗する理由は、経営判断のミスによる損失を埋め合わせるのに十分な資金を、預金者が銀行に預けないからである」(言い間違えでないとしたら、ただのバカ)

「火星の表面を撮影した写真によれば、火星には運河も水もある。水があるということは、酸素も存在するということだ。火星に酸素があるなら、人間は火星で呼吸ができるはずである」(事実の誤認と論理の飛躍)

www.improbable.com
 

雑感

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 8月15日(月)16時11分22秒
  K妻と「マダガスカル」を観に行った。

登場人物のうちで一番気に入ったのはペンギンたち。
主人公のライオンのアレックスは、忙(せわ)しなくて、いまいちだった。
もっとペンギンたちが活躍したほうがよかったなぁ。

最後のオチは日本とも関係していて非常にうまくできていた。

誰でも楽しめる。

***

ただいま読書中=「遠山啓のコペルニクスからニュートンまで」(太郎次郎社)、「道具としての流体力学」山口浩樹著(日本実業出版社)、「自殺論」デュルケーム、宮島喬訳(中公文庫)、「素数ゼミの謎」吉村仁著、石森愛彦絵(文藝春秋)。

ただいま仕事中=マクスウェル「電気論の初歩」の翻訳。

たとえばカントの主著「純粋理性批判」には「プロレゴーメナ」という入門編があるし、ランダウ=リフシッツの物理学にも大教程のほかに小教程がある。
マクスウェルの場合、主著の「電磁気論」は厖大で昔の数式表記で手に負えないが、プロレゴーメナや小教程にあたる本が「電気論の初歩」なのだ。
ちょっと驚いたのは、その内容が現在の大学の教養課程で教わるものと、ほぼ重なっていること。オリジナルであるだけに学問的な動機や当時の実験器具などがわかって、電磁気学の「真髄」に触れた気がする。
やはり、理系といえども、ホンモノに触れないと本当のココロはわからないのだと、改めて反省中。(翻訳は8割まで完成、8月中に脱稿予定)
 

表彰

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 8月15日(月)15時53分26秒
  鎌倉にいる私の愛猫カロアは15歳になったので、鎌倉市から「御長寿猫」として表彰されることになった!

好物のえびをもっていってお祝いしてやることにする。
 

スターウォーズ

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 8月15日(月)15時47分14秒
  スターウォーズのエピソード3はグリペンさん、Fさんと観に行ったが、意外と複雑な感想を抱いた。

もともと、世代からすると、シリーズ第一作(話の流れでは「エピソード4」)をリアルタイムで観ていて、当時は、スピルバーグの「未知との遭遇」とルーカスの「スターウォーズ」が二大宇宙物として話題をふりまいていた。
両作品ともそれなりに衝撃的だったが、私の周囲は、スターウォーズ派と未知との遭遇派に大きく分かれていたような気がする。

私は断然スターウォーズ派だった。

一作目は、それまで見たこともないCGと音に圧倒されたし、宇宙でちゃんばら活劇をやるというのも目新しく、SF映画の新たな時代の幕開けを予感させた。
最後のシーンでダース・ベイダーが逃げたのは、いかにも続編を期待させて、さすがに苦笑させられたし、個人的にレイア姫が好きでなかったが、やはり五つ星評価だったよね。

シリーズ3作目(エピソード6)は、拡がりすぎたシナリオを整合的に収拾した、という感じが否めず、ストーリー展開にいくつも不自然なところがあるような印象を受けたので、出来からいうとシリーズ第二作目(エピソード5)「帝国の逆襲」が一番だったか。

今回もエピソード2の出来と比較して、エピソード3は、微妙だといわざるをえない。全6作のうちの5作(ご存知のように元々の構想は9作)までが出来ていて、その途中のパズルを無矛盾に組み込まないといけないので、詳細まで詰めたシナリオや原作がなかった以上、非常に苦しくなることは理解できる。

ネタバレになるといけないので詳しくは書かないが、エピソード3では、皇帝の変貌のシーンやレイアとルークの出産時の命名など、「つなぎめ」の不自然さが目立っていた。

ハン・ソロ船長のようなアウトロー的役回りがいなかったので、私のような人間は感情移入できる登場人物がおらず、エピソード4から6までよりも評価が低くなってしまうのかもしれない。

とはいえ、これでめでたく全6作が完結したので、いずれ、DVDで全巻を通して見てみよう!

うーん、辛口とはいえ、私は、やはりスピルバーグよりルーカス派なんだよな・・・。
 

表現談義

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 8月12日(金)22時45分48秒
  DVDを買ってきてウディ・アレンの「誰でも知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう」を観た。
爆笑。

前にもテレビで観た憶えがある。
劇場でもウディ・アレンの映画はよく観るほうだが、彼の映画は「表現者」という言葉の真の意味を教えてくれるような気がする。

***

私は自分で自分のことを決して「表現者」とは呼ばない。
私は自分のことを「売文屋」あるいは「物書き」と呼ぶ。
いったい何がちがうのか。

***

たとえば入れ墨を彫る人も表現者だし、リストカットをする人も表現者だ。抗し難い内なる衝動や葛藤を外に向けて表現「せざるをえない」からこそ表現者なのだ。
なにかを(一般的な意味で)表現して金をもらっているから「表現者」なのではない。

テレビの民放番組の多くは、先に「どうしても表現したいもの」があるわけではなく、先に「金と結びついた放送枠」があるために、その枠を埋めようとして番組をつくっているから、相変わらず同じような面々が同じような内輪のネタ(何を食べたとか、どこに行ったとか、誰を騙したとか・・・)を垂れ流しているわけだ。
テレビの創成期には、そんな無駄はなかったにちがいない。

前にも書いたが、「ロード・オブ・ザ・リングス」三部作を完成させたピーター・ジャクソン監督も立派な「表現者」だろう。

なぜ、こんなことを書いているかといえば、ウディ・アレンにしろ、ピーター・ジャクソンにしろ、驚くようなB級映画(ドタバタ喜劇やスプラッター)を撮っているのに、その同じ人間が映画賞を独占するような素晴らしいA級映画を完成させる点がすこぶる興味深いからだ。

こういうことなのだろう。

ウディ・アレンもピーター・ジャクソンも基本的に「表現者」なのであり、彼らが表現したものをB級とあざ笑ったりA級として賞を出したりするのは、あくまでも受けての反応にすぎない。
大事なのは、その時、その時において、彼らが何を「表現したいのか」なのであって、その結果は、いったん外に出てしまえば、あとは鑑賞者の間を独り歩きし始める。

一時、ポストモダンの芸術評論においては、まるで表現者ではなく鑑賞者のほうが鍵を握っているかのような言い回しが流行ったが、おそらく、真の「表現者たち」にとっては、そんな「うがった」とらえかたも、どこ吹く風なのだろう。

ただ、それでも「表現者たち」は、自らの申し子が待ち受ける運命を気にする。
だから、それがB級と嗤われれば、それが彼らの内面の状態を変えてゆき、あるとき、周囲からは信じられないような変身を遂げて、拍手喝采を浴びる。

まるで、醜かった蛾が美しい蝶に脱皮する瞬間のように。

***

芸術家が自殺をするとき、私は、いつも非常に残念に思う。
彼らは、好き好んで自殺するわけではない。芸術作品を創作する原動力と同じ「内なる衝動」をコントロールできなくなって、(うつ状態などで活動が落ちて、)創作という形でのカタルシスが得られなくなってしまい、荒れ狂う「心の野獣」に自分自身を喰い尽くされてしまうのだ。

***

私としては、そういった命掛けの「表現者」にはなれそうにもない。
ま、気楽な「物書き」として人生を愉しむとするか・・・。
 

床屋談義

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 8月12日(金)22時19分39秒
  最近床屋に行くと、注文が変わってきていることに気がついた。

以前だったら、
「前は左に自然に分けて、耳は少し出るくらいで、後ろは剃らない程度」
てな感じで頭髪のスタイルに注文をつけていた。

ところが、今では、
「髭は5ミリくらいに刈り込んでね」
で終わりで、床屋さんが、
「上はどうします?」
と訊ねても、
「上は適当に」
で終わり。

つまり、髭のほうが気になってしまって、頭髪のほうは無関心になりつつあるわけだ。

実際問題として、これから何年か後には、髭は立派に残るだろうが、頭髪のほうはどうなるかわからない。将来的にきちんと残るものを気にして、私から去って行く可能性のある存在を邪険に扱うのは、それなりに理にかなっているように思う。

うーん、マンダム。
 

外からの視点

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 8月 9日(火)15時05分41秒
  米ABCニュースのアンカーマン、ピーター・ジェニングスが死んだ。

この人は、もともとカナダ人で、2003年になってようやくアメリカ国籍を取得した変わり種だ。
もっとも、アメリカで活躍するカナダ人は多い。

日本でも、沖縄出身の音楽家が目立ったりするが、国も組織も「外」から見ると「内」からとは全く見え方が違ってくることがある。

私だって、広告関係のプログラミングやコピーの仕事をしていた頃から、嫌というほど会社を「外」から眺めさせてもらっているが、たとえば「会議ばかりで身動きができない会社」とか「現場の声が上に届かない風通しの悪い会社」というのはすぐにわかるし、「取引先から嫌がられているのに気づいていない会社」もたくさん見てきた。

ピーター・ジェニングスという人は、若い頃にABCのアンカーマンになったが、まだ準備ができていなかったようで、すぐに降板させられて中東を含めた海外に「飛ばされた」。
だが、その長い海外記者時代に、アメリカを「外」から見続けて、(自分中心の人ばかりのアメリカでは珍しく)良心と知性を兼ね備えたアンカーマンとして存在感を出してきた。

改めて「外からの視点」を意識しながら生きていかないといけないな、と自戒している。
(作家だって読者の声に耳を傾けないとね・・・常に独りよがりになりがちだから)
 

べき法則

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 8月 9日(火)00時50分4秒
  物理学には「べき法則」というのがある。
複雑系やネットワーク科学にもよく登場する。
ようするに、ナントカのナントカ乗、という恰好の法則のこと。(xの-2乗とかtの1.8乗とか)

たとえば日本社会における大金持ちと(その他大勢の)貧乏人の割合もべき法則になっているし、インターネットの巨大サイトと閑古鳥サイトの比率もべき法則にしたがう。
イメージとしては、ごく少数の金持ちや人気のある所には、ますます金や人が集まるけれど、大多数は貧乏で人も集まらない、といった情況だ。

オヤジギャグみたいで申し訳ないが、テレビを見ていて、政治の世界にも「べき法則」があることに気がついた。
人相が悪い連中にかぎって、「〜するべき」という表現を多用するのである。
これは、自然界に存在する数学的なべき法則とちがって、「みんなワシの考え通りに行動すべきだ」というものだから、オレは、政治家が「べき」という言葉をつかうたびに、テレビに向かって、
「なんで周囲がてめえの思惑どおりに行動しなくちゃならねえんだ」
と毒づいている。

べき法則 「べき」という言葉を使う政治家には利権がらみの奴が多い

ふう、いよいよ、日本国の「膿」を出す選挙戦に突入ですなぁ・・・。
 

 投稿者:KAORU  投稿日:2005年 8月 8日(月)13時33分42秒
  ふたたび政治ネタ。





めったに見ない国会中継を見ている。

オレの立場はずっと、小泉さんの人格は好きだし信じられるが、郵政よりも景気対策や外交問題や自殺問題など優先課題があるだろう、というものだった。

でも、ここまできたら、私利私欲の利権派か、利権反対派の小泉さんか、という二者択一になるので、迷わず小泉さんに一票。

でも、否決は決まっているんだろう?
だったら、選挙で、ドロドロの連中には国会議員を辞めてもらおうよ。
そう考えているのはオレだけか?
 

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