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私はカトリックの信者なのだが、ほとんど教会には行かない。
でも、聖書は読んでいるし、常に宗教を意識して生きている。
日本には宗教を忌み嫌う風土があるようで、その原因は私にはわからないが、少なくとも現代科学が昔の宗教の肩代わりをしているようには見えないから、大勢の人が「心の拠り所」を失っている。
自分自身が拠り所であったり、実存主義哲学が拠り所であるような人もいるだろうし、心理療法士のセラピーに頼る人もいるだろう。
私はカトリックだが、基本的に宗派というのはあまり大事だと考えていない。
大切なのは宗教が与えれくれる「心の避難所」としての役割であり、いいかえると「人間本位主義=ヒューマニズム」なのである。
それがない宗教は平気で人を殺す。
こんなことを書くと、「それではカトリックとプロテスタントの殺し合いはどうなる?」とか「キリスト教とイスラム教の争いでも人が死ぬだろう」などと言われそうだが、まさに、「ヒューマニズム」の視点を見失ったとき、それはもはや宗教の名に値しないのだと断言できる。
テロや戦争を後押しするのが宗教なのではない。
それは単なる集団狂気にすぎない。
表面的な宗派の区別よりも「心の拠り所」としての本質が大切だと考えるから、私は、法華経の入門書もたくさん読んだし、最近では「無宗教からの『歎異抄』読解」(阿満利麿、ちくま新書)を読んで感銘を受けた。
考えてみれば、人種差別も階級差別もすべて「ヒューマニズム」が失われた状態なのだ。
私の周囲で心の問題で苦しんでいる人たちの多くは、頑なに宗教を拒んでいるように見える。
おそらく、その人たちの「宗教」のイメージは、私が使う「宗教」という言葉とは全く別の何かなのだ。
以前、ある生物学者が書いたエッセイの中に、宗教を拠り所として生きることの是非が論じられていて、多いに考えさせられた。
その生物学者は、できれば無宗教で自分を拠り所にしたほうが、宗教に頼るよりいいのではないか、と書いていた。
だが、私は思ったのだ。
自分だけを拠り所にしてがんばれる人間なんて、よほど強くないと無理ではあるまいかと。
たとえば私は自分を拠り所にして生きていかれるほど強くない。
私が弱い人間であることは私がいちばんよく知っている。
でも、私の周囲には大勢の人が集まってくれるし、講演や講義や酒宴の席で、私は(ほんの少しだけ)みんなを幸せにしてあげられる。
それは私の心の中にある「ヒューマニズムとしての宗教」が源泉だ。
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宗教という言葉に「負」のイメージばかりがつきまとう現代は不幸な時代である。
私の身近なところで心の苦しみにのたうちまわっている人を見ながら、私は、彼を救ってくれる「宗教」に出会ってくれれば、と希うのだが、彼は自分以外の拠り所を探そうとはしない。
私は宗教者ではないし布教もしない。
私は物書きだから、作品で彼を救うしかない。
はたして私の言葉は彼の切り裂かれた心に届くであろうか。
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